9月10日 世界自殺予防デー
この日は2003年に世界保健機構(WHO)と国際自殺防止協会がストックホルムで開催した世界自殺防止会議で制定されたとのことです。
自殺はいけませんね。
と、口で言うのは簡単ですが、当事者として考えるとそういう抑止となる思考はすべてストップしているんですよね。
私も28年間生きていると、周りで鬱になる人もいますし、私自身も鬱になったりもします。
私の場合はそういった状態になりましたら必ず一つの約束を決めています。
それは「父母より早くは死なない」です。
やっぱり父母よりも早く死ぬことほど親不孝なことはないですから。
父母が亡くなったらこの目標は失いますので、その時はまた生きるための目標を見直そうかと思います。
今日は昨日の救急医療の話の続きで2回目に利用した時の話をつらつら書いていきます。
私が2回目に救急医療を利用したのは中学3年生の2007年のときでした。
当時私はバスケ部に所属しており、最後の大会である地方大会を迎えようとしていました。
私の学校はバスケでは強豪校であったため、最後の地方大会でも初戦なんかは圧倒的大差で勝つことが殆どでした。
そんな大差の試合になると大抵は消化試合になるので、そこでベンチ要員の私なんかが出るというのがいつもの試合出場の形です。
なので今回の最後の地方大会でも同じように初戦が私の最後の大会になるであろうと思いながら残り少ない練習をしていました。
そうして迎える地方大会の開会式。開会式はユニフォームを着用して整列し、選手宣誓と会長の挨拶などが行われます。
私も後ろの方で整列し、直立で偉い人の話をずっと聞いています。
すると、段々と視界が狭くなってくような感覚に襲われます。
呼吸も苦しくなりつつあり、すぐにでも下に座って落ち着きたいところでした。
しかし、舞台は中学最後のバスケの大会の開会式。私もこれが最後の晴れ舞台と思うと、開会式なれど一人だけ直立を崩して座るなんてみっともない真似はできないと当時の青さがこの後仇となって返ってきます。
身体の異常はどんどんとエスカレートしていき、最終的には視界はブラックアウトして前にいる私の友人の背中に倒れ込むような形でもたれかかったと聞いています。
その後目を覚ました時は私は顎をタオルで抑えられながら仰向けになっていました。
ぼんやりとした頭の中で色々と状況を整理していき、自分が失神のような形でぶっ倒れてそのまま開会式は終了したことを知りました。
では、あごはなぜタオルで抑えられているのだろう?そう思って抑えてくれているタオルを手でどかさせてもらい、若干痛みのするあごに手で触れる。
すると指にはえげつない血が着いているのです。で、顎に当てていたタオルもよく見ると、血がドバドバついている。
そこでようやく自分はそのまま地面に顎から落ちたのだなと理解することができました。
痛みは意識が朦朧としている影響もあり、そこまで痛みはありませんでした。
ただそのまま救急車に運ばれて近場の病院で救急医療を受けることになりました。
結局怪我の詳細としては顎の骨が肉を割いてしまっているということで、縫うことになりました。
その針の数は17。なんか針って4,5針くらいの数字は聞いていましたし、私の兄も眉を切った時はそのくらいの数で終わったはずなのに私は17…?!
後から聞きましたが、顎は関節部としてよく動く箇所になるため、少ない縫合だと治りが遅くなってしまうことになるということもあり、しっかり縫うんだそうです。
まあ縫合自体はしっかり麻酔してくれましたのでそこまで痛みを感じずに終えることができました。
ただ、治すために少なくとも1週間程度は過度な運動は控えるようにとのことのため、私の最後の地方大会は幕を閉じることになりました。
と、思いきやチームはまさかの地方大会優勝を果たしてしまい、全道大会へコマを進めることができたため、私は全道大会の一回戦で治りかけの顎をカバーしながら最後の試合に出ることが無事できました。
この怪我の反省点ですが、自分の羞恥心が過剰だったことの一言につきます。
意識が悪くなってるんだからどんな場面であろうと恥ずかしがらずに楽な体勢を取るべきでした。
これは今の私の教訓にもなっており、他人がどう思おうが、最終的には自分第一で進むことが良いのだという考えで生活もするようにしています。
前回書いた怪我もそうですが、怪我はただするものではなく、何が悪かったのか、どこを改善すれば起きなかったのか振り返ることで怪我の功名ではないですが大きな経験になって返ってくるので良かったかなと今では思います。
怪我しないことに越したことはないんですけどね笑
それでは、また。